和尚のひとりごと ”片手は仏さま 片手は自分自身”
いま、
子どもたちをとりまく環境から、
昔を生きた人から見ても、
思わぬ
「あれ」
と思うことがあるそうです。
そのひとつが
合掌ができないお子さんたちが
おられるということです。
食事での時間、
「みなさんでいただきましょう」
と話しても、
手を合わす姿のなかに、
合掌して手のひらを合わせられないお子さんたちが
おられるそうです。
普段よりそのような環境でお育ちでなければ、
それがあたりまえのことなのですから、
知らなくても当然かもしれません。
いまや、
お家に仏壇が無いお宅の方が多いのですから、
ご先祖を敬う合掌、
命をいただきます合掌、
そのような家庭で学ぶ機会が無いのでしょう。
仏壇の無いお家でお育ちになった方々が、
父となり母となる時代、
致し方ないことですね。
私は、
合掌とは仏さまとひとつになる
スイッチみたいなものだと思います。
片手は仏さま、
片手は自分自身、
それが合わさりひとつとなり、
いただいた命に感謝、いただく命に感謝、
みなともに仏さまとなるお姿ではないかなと思います。
心をこめて合掌、
他人の命あって私が存在する理を知る、
そのようなことを
知るきっかけを結んでいただける場所が、
常に仏さまと対等に対面ができる寺院だけになってきたことも
寂しく思いますね。
気兼ねなくお参りができる場所は何処か…
それだけに寺院のあるべき姿が見なおされる時代が
訪れていると思う私です。
昨日は友人の安寿が東京より来ておりましたので、
お若いお嬢さんたちが
お目にかかりたいと集まっておられました。
もちろん、
みなさま合掌のお姿は美しいものでした。
さて、
今日から六月、
こことご縁あるお家のご兄弟全員お集まりになって、
お経をお勤めになりました。
たくさんの合掌のお姿、
今日も合掌の花が咲きほこりました…和尚のひとりごとでした。
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