西光寺
時宗 東福山 西光寺
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Saikouji Blog

和尚のひとりごと “家康公と中泉御殿~あの日あのときの空は蒼かった~…光阿弥(和尚)作”

家康公と中泉御殿 ~あの日あのときの空は蒼かった~  光阿弥 作

時は永禄三年(1560)、

織田信長公がわずかな兵を率いて、

今川義元公の大軍に戦いを挑み

勝利いたしました

桶狭間の戦いをきっかけとして、

松平元康公は、

岡崎城に入り、

三河全域を支配におきながら、

やがて、

所領拡大のため

今川の勢力が衰えた

遠江へと進出をはかるのでございます。

永禄四年(1561)、

信長公と同盟を結び、

永禄六年(1563)、

元康公は…名を家康と改名、

今川義元公より賜る“元”の字を変え、

名実ともに

今川家と決別をされ、

永禄九年(1566)には徳川へと改姓、

愈々永禄十二年(1569)、

遠江の拠点、

城之崎城(現在の城山球場周辺)の普請に

かかるのでございました。

城之崎城

城之崎城古図

このお城は、

残されております古い記録によりますと、

入り江に面し、

湖岸、

沼地と、

舟の停泊も可能だったとされております。

また、

築城予定地から見おろす見付の村は、

街道が東西を横断し、

お城が完成の暁には、

陸と水路の要衝としての役割を果たす

予定であったのでございます。

もちろん、

東西南北、

風水学的にもたいへん見付は、

城造りによろしい土地でございました。

築城をはじめられました当時は、

ちょうど

掛川城の今川氏真公を攻略され、

遠江の大半を手の中におさめられた頃、

おそらく、

国分寺が建立されました天平時代より、

見付が遠江の政治・文化の中心で栄え、

太平洋ともつながり、

信濃を結ぶ

暴れ天竜の川も近いという最適地から、

天下統一の足がかり、

築城の地とえらばれたのでございましょう。

しかしながら、

どうしたことか、

家康公、

一年ほどで築城の普請をとりやめ、

引馬城(のちの浜松城)へと

拠点を変えられたのであります。

いまに語られる

その一番の理由としては、

武田信玄公に東から攻められたとき、

天竜川を背にしていては、

『不利』と判断されたようでございます。

歴史のなかに消えてしまった

儚い城之崎城の勇姿は、

一度も天下に異彩を放つこともなく、

いまは、

城山の球場に…

当時の土塁の跡を残すのみなのでございます。

城之崎城3

城之崎城土塁跡

さてさて、

天正六年(1578)頃より、

遠江国における武田家との戦いも、

高天神城の攻防をはじめ、

戦の中心が東遠方面へとなり、

家康公の拠点でありました浜松城からは、

遠く離れるという理由から、

現在の磐田市中泉に

砦を築かれるのでありました。

そして、

織田・徳川連合軍によります

長篠の戦いの大勝利以降、

家康公は武運をあげ、

遠江にありました

武田方の城を攻略されながら、

武田家の残党を討ちとり、

一度は、

あの三方原にて家康公のお命を追いつめ

勝利目前でありました武田家も、

このあと、

信玄公の世継ぎでありました

勝頼公を最後に

滅亡の道を歩むこととなったのでございます。

御殿発掘

中泉御殿発掘の様子

時は流れて天正十二年(1584)、

駿河、遠江、三河、信濃、甲斐…

五ヶ国の大名となられておりました家康公は、

戦のため築いておりました

中泉砦の跡に鷹狩り、

静養の別荘として

御殿建造を

伊奈忠次(三河国出身武蔵小室藩初代藩主)に命じ、

駿河、遠江、三河、三国の負担として、

天正十四年(1586)頃、

一万坪の敷地に土塁と水堀を備え、

周辺の沼、

湿地を利用して水をめぐらし、

まさに天然の要害として、

中泉の地に御殿を完成させるのでございます。

主殿 通用門 記事

中泉御殿主殿通用門跡

文政六年(1823)に書かれました

“遠州中泉古城の記”

「見付宿より

左に折れて行くこと…中泉の古城なりと」。

このように

後の時代にも

面影の一部を記録されることになります

中泉御殿は、

家康公が

関東へと国替えとなりましたあとも、

徳川家が東海道を往復する際の宿泊や

休憩地の役割を果たす一方、

密談、軍事軍略の拠点、

および

国内統括の作戦本部として、

歴史を動かしたところと伝えられております。

あの天下分け目の戦い、

慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いのおりには、

三万の軍勢が中泉御殿に宿営・野営し、

周辺の土地も屯ヶ岡(たむろがおか)と

呼ばれるようになったそうでございます。

前線勝利の報を受けると、

家康公は、

三万の大軍とともに

中泉御殿より

関ヶ原へ向けて出陣されたのでございます。

みなさまご存じのジュビロ磐田と

静岡ブルーレヴズのホームスタジアムであります、

ヤマハスタジアムの収容人数でさえ、

満員で一万五千百六十五人でございます。

その二倍の大軍でございました。

また、

慶長十九年(1614)、

十月十三日、

中泉御殿にて大阪征討の作戦を練られ、

大坂へと向かわれたのでございます。

翌慶長二十年(1615)一月三十日、

大坂冬の陣の後始末を終えた家康公は、

中泉御殿にはいられ、

二月一日には、

大阪城の壕や

塀の取り壊しの状況報告を聞き、

二月八日、

二代将軍

秀忠公が江戸城へともどられます途中、

中泉御殿に立ち寄られ、

家康公に拝謁、

このとき、家康公より、

『戦はこれで終わったわけではない、

つぎは、

豊臣の息の根を止める、戦の準備を怠るな』

…と密議、

再出陣が近いことを

伝えられたということでございます。

秀忠公を見送り、

しばらく中泉御殿にて

休養されました家康公は、

二月十四日、

駿府のお城にもどられ…

そして五月…

みなさまもご存じの通り、

大阪城夏の陣にて豊臣家を滅ぼし、

これより徳川家の勢力は、

より一層強固なものへとなるのでございます。

まさに、

生まれし神の君として、

戦国の時代に終止符をもたらされ、

徳川三百年、

いよいよ戦のない天下泰平の…

日の本の国へと

築かれていくのでございます。

…さてさて、

お話しをもどしとうございまする。

神の君が造りし中泉御殿は、

三代将軍家光公の時代でありました

寛文十年(1670)に廃止され、

七十年以上にわたる

建物のお役目を終えたのでございます。

駿府記、

徳川実紀等、

国立公文書館が保存いたします

数点の文書によりますと、

家康公は、

天正十六年(1588)より

元和元年(1615)のあいだに、

鷹狩りなどでたびたびご滞在、

晩年までの時代をふくめて

少なくとも

二十一回、

中泉御殿を

訪れておられたそうでございます。

中泉御殿 門跡中泉御殿 門出土状況

中泉御殿発掘状況

日の本の国の歴史が大きく変わった

表舞台の裏に存在していた中泉御殿。

廃止されたあと、

中泉御殿の表門は西光寺(磐田市見付)へ、

主殿と裏門は西願寺(磐田市中泉)へ、

書院は常楽寺(磐田市堀之内)などに

移築されたのでございます。

西願寺中泉御殿裏門

西願寺 中泉御殿裏門

しかしながら、

移築されました建物等は、

その後改築がくり返され、

廃止より数百年の時間の流れのなか、

徳川家康公と

中泉御殿の歴史をそのままに語る…

形あるものは、

いまでは、

西光寺、

西願寺にございます門(薬医門)、

快真寺釘隠し

快真寺 中泉御殿主殿長押釘隠し

主殿が移築されました

浜松市の快真寺の長押(なげし)に残された

葵紋の彫られた釘隠しだけに

なったのでございます。

表門 行列

西光寺 中泉御殿表門

なかでも、

西光寺の御殿表門は、

総ケヤキ造り、

西願寺の御殿裏門よりひとまわり大きく、

平屋建ての門の中で

最も格式の高い薬医門の形を残して、

重厚感と

御殿の正門の雰囲気が伝わり、

天下人家康公の威厳を表しながら、

いままさに存在しているのでございます。

まさしく、

徳川家康公をはじめ、

数多くの無名有名の武将たちが

この門を往き来され、

天下統一を夢見ておられた歴史のロマンを、

令和の時代にはいりましても、

西光寺を訪れるみなさまへ、

声なき声で語りつづけているのでございます。

そして戦国時代、

徳川家康公が

中泉御殿の門を見あげておられました

“あの日あのとき”と変わらない蒼い空が、

今日も明日も、

この遠江国…磐田市には…ひろがっておるのでありまする。

しっぺいと表門

 

エピローグ…

昔々、

広島大学大学院名誉教授

三浦正幸先生が磐田市文化財課のご縁で

西光寺を訪れ、

移築されております

中泉御殿の表門につきましてのご感想、

いまでもよく覚えております。

『最高級の木材…総ケヤキ造りの門は、

当時、

訪れる者たちに

家康公の財力の大きさを伝える

役割を果たしております。

なぜなら、

お抱えの家臣たちが増えたあとに

建立されているであろう、

二条城、皇居の門には、

柱に鉄板が貼り付けられており、

鉄砲の弾から柱を守る目的以外に、

柱に使われた

安い木材を隠す目隠しも兼ねております。

そのように考えますと

西光寺に残されております門は、

中泉御殿の表門どころではなくて、

お城とおなじ大手門であると。

もしかしたら

家康公が柱を触られている可能性もあります。

きっと、

まだ発掘されていないどこかに、

この大手門の跡があると、私は思いますよ』

image0 (53)

まだまだ

歴史のロマンをふくらませてくれそうな

西光寺の表門でございます。

さてさて、

これにて本日のお話、

私が書き下ろしました…ノンフィクション…

【家康公と中泉御殿~あの日あのときの空は蒼かった~】

を終わりとうございまする。

令和五年一月十八日

家康公ポスター

 

磐田大祭り

遠州大名行列監督・行列指導責任者

〃   時代劇作成担当

〃   台本作成担当

光阿弥(下村恒)

 

…和尚のひとりごとでした。

 

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