和尚のひとりごと “ねがわくは われはちるとも かえりみし 子らをたすくる ちからさつけよ”
本格的な雨模様の季節となり、
潤いに雨粒が遊ぶここ磐田市です。
今週もしばらくは雨の予報、
例年、
梅雨明けが宣言されます七月まで長丁場。
しとしとそぼ降る雨ならよろしいのですが、
大地をたたきつけるような
激しく荒れた雨ならご遠慮を願う、
そんな思いになる記録的に早い梅雨入りです。
さて、
今日は、
五月十九日。
西光寺があります旧見付宿には、
この日に悲しい出来事がありました。
昭和二十年…太平洋戦争末期、
空襲警報が響きわたるなか、
見付町立国民学校
(現磐田市立磐田北小学校)の児童たちが避難のために帰宅途中、
アメリカ空軍機
B29によって落とされました爆弾が直撃、
一瞬の間に
たくさんの尊い命が消えてしまい、
引率の先生一名、
六歳から十二歳の児童二十八名が帰らぬひととなりました。
時に…午前十一時四十分。
幸いにも
爆弾の直撃を免れて助かった負傷児童は六名でした。
もし、
戦争の犠牲になられましたみなさまがご存命なら、
いまごろはお孫さん、
ひ孫さんに囲まれた人生があったろうと、
毎回、
この日が訪れるたびに思うわたしです。
終戦を迎えた翌年より
ご遺族による慰霊祭が勤められてまいりましたが、
いまでは、
児童が通っていた
磐田市立
磐田北小学校PTA主催の慰霊祭法要となり、
教師、児童、
ご冥福を祈る一日となりました。
生きている命の感謝と
平和な世界のありがたさを語りついでいくきっかけにしようと、
この日を迎えた一週間は…平和の学習として、
児童のみなさまも
平和の尊さを考え学んでおられます。
いままでも、
当時現場におられて助かった地元の人たちに
お話を聞く全校児童の集まりを開いたこともありますし、
七十年以上
続けて来られました慰霊祭のとりくみが認められて、
外部団体に表されたこともあります。
わたしも西光寺に入山してより四十年近く、
一度も欠かさず
慰霊祭法要に参列させていただいております。
磐田市仏教会として、
見付にあります寺院として、
大勢の和尚さまたちといっしょ、
誠のこころでお経を称えさせていただいております。
今回で七十七回目の慰霊祭となります。
他の地域でも、
太平洋戦争の犠牲をきっかけに
慰霊祭が開催されて来られたところもあるとは思いますが、
こうして、
いまも続けておられるところがあるということは、
とても素晴らしいことだと思います。
そして、
いまを生きるひとたちに
“平和な世の中があたりまえではなくて
とても幸せなことなんだよ”
と教えてくださる存在としていまもある、
けっして、
その死を無駄にしないひとたちに守られながら、
これからも…
形は消えようと教えは永遠なる存在として、
その時代、
その時代を生きるみなさまのお役にたてる御霊なのです。
今日は、
涙雨の音が響く慰霊祭でした。
わたしは思います、
悲しみの涙ではなくて、
【また今年もわたしたちのことを思いだしてくれてありがとう】
そんな嬉しい涙なんだと。
奇しくも被災前、
子どもたちを引率されていて亡くなった
女性教諭…田中小苗(たなかさなえ)先生、
享年十九歳が自身の日記に残されていた詩をここに残しておきます。
『ねがわくは われはちるとも かえりみし
子らをたすくる ちからさつけよ』
みなさんのご冥福を祈りながら…和尚のひとりごとでした。
コメント
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お母さま、
もう一度、
生きるチャンスを偶然の重なりで得られたのですね。ほんと、
生きる命の狭間とは、
それを
左右するいろいろな重なりがあって
日々の積み重ねかもしれません。大きな悲しみを背負いつつ、
犠牲になって
散った友だちのぶんまで
一生懸命生きることを選択されたのでしょうね。こうして、
またおひとり、
当時のお話しをうかがいますと、
来年の慰霊祭、
いつも以上にこころをこめて
誠心誠意…
お経を勤めたいと思います。お母さまとの残された時間、
寄り添い、
一日一日、
一分一秒、
大切にお過ごし下さい。お便り、
ありがとうございます。お母さまが慰霊祭に参列できますこと、
叶いますよう
こころからお祈りを申しあげます。和尚
今 たまたま このブログに気付きました。私の母は この6人の生き残り児童の1人です。この空襲の話は よく聞きました。母の胸の辺りには いまだに爆弾の破片が入っておりレントゲンを見た医師は驚いています。当時 助からないと思われた為 遺体安置所に並べられていたところ、検死に来た女医が 偶然にも母の伯母で 瀕死の姪っ子を助けたそうです。母は今 介護施設に入っておりコロナの影響で面会も出来ない状況ですが、可能であれば来年の慰霊祭に連れて行きたいと思っております。